秋葉原にある王道家は超濃厚な家系ラーメン!

こんにちは。栞です。

今回は、東京の末広町にある家系ラーメン「王道家」に行ってきました。

[住所]
東京都 千代田区 外神田5丁目2−7
外神田下村ビル 1階

王道家は、家系ラーメン総本山「吉村家」の直系で、かつては”家系四天王”の一角を担う程でした。

今でこそ直系からは外れてはいるものの、王道家は独自の進化を続けており、家系ラーメン界の中でもトップクラスの人気を誇っているのです。

今回は、家系四天王の一角だった王道家についてレポートします。

秋葉原の王道家は超濃厚な豚骨醤油!

王道家でオーダーしたのがチャーシューメンです。(780円)

当時の王道家は千葉県 柏市に本店を構えており、かつては吉村家直系で”家系四天王”と称される程でした。

その評判に違わず、王道家のラーメンは特にスープが濃厚で、口に含んだ瞬間から強烈な豚骨と醤油の風味が広がり、他の家系ラーメンの追随を許しません。

この風味は大量のガラを煮込んでいるからこそ出せるものであり、王道家では一般的なラーメン店と比較して数倍のガラを使用しているのです。

通常、使用するガラの量が多ければ多いほどコスト(値段)は高くなりますが、王道家ではそういったコストパフォーマンスに囚われることなく味を徹底的に追及しています。

私も複数の家系ラーメンを食べ歩いていますが、王道家のスープが一番濃厚で、その強烈な味は一度食べれば絶対に忘れることは出来ないはずです。

実は、王道家のガラは煮込んだ後に一度寝かせており、このひと手間があることでよりガラの旨味を引き出しているのです。

上澄みは乳化しているが、下層は非乳化のスープ

王道家のスープは上澄み(表面)が乳化しており、スープと脂が渾然一体となっています。

通常、乳化しているスープは味がマイルドになるはずですが、王道家は大量のガラと濃厚な醤油をベースにしているため、乳化していても強烈なインパクトが残っていました。

しかし、王道家のスープはここからが真骨頂で、上澄みは乳化しているものの、スープの下層は下に行けば行くほど非乳化となっているのです。

つまり、王道家のスープには味のグラデーションが掛かっており、立体感のあるスープと言えます。

事実、スープの底からすくい上げた部分は特に濃厚だったので、私は敢えてスープを撹拌しないで食べ進めました。

かつて家系四天王と評されただけあって、王道家は現在でも家系ラーメンのトップに君臨するレベルの味だったことを再認識した瞬間でした。

接客や店員さんの雰囲気は?

入り口で入店の案内をしていた店員さんは日本人で、厨房でラーメンを作っている店員さんは外国の方でした。

店名が「IEKEI TOKYO」ということもあり、積極的に外国籍のスタッフを雇用しているのかもしれません。

事実、厨房にいた3人は全て外国籍の方で、恐らくはベトナムなどの東南アジア系の方とお見受けしました。

日本語そのものは拙いですが、「味の濃い・薄いがあったら言って下さい」と常に声掛けをしており、ラーメンを作りながらでもお客さんへの気遣いを忘れていない姿勢に心を打たれました。

厨房はオープンキッチンなので調理の様子がよく見え、麺茹でから麺上げなどの所作も逐一観察できて興味深いものがあります。

一部の口コミでは「仕事が粗い」という声もありますが、私が見たところ、そのような印象はなく、むしろ丁寧な仕事ぶりとお客さんへの配慮に感動しました。

その口コミを嘘だと否定するつもりはありませんが、その日だけ店員さんの手際が悪かったのかもしれません。

吉村家からの破門

王道家はかつて吉村家直系で当時は家系四天王の一角に数えられていましたが、実は、2011年に吉村家から破門されているのです。

その理由は「自家製麺の追求」「弟子(後進)の育成」でした。

まず、自家製麵の追求ですが、正当な系譜にある家系ラーメンでは酒井製麺の中太麺が卸されています。

酒井製麵の麺は、家系ラーメンの濃厚なスープをしっかりと受け止めるコシがあり、また、スープによく絡むので「家系ラーメン=酒井製麵」という図式は絶対のものとなっています。

しかし、王道家では更なる味の向上を求めた結果、オリジナルの自家製麺の研究・開発に着手することになります。

ところが、これが吉村家から反対を受けてしまい、これは一因となって破門されることになったのです。

続いて、吉村家には「暖簾分けは直系のみ」という鉄の掟がありました。

つまり、吉村家から派生出来るのは直属の店舗のみで、その派生した店舗からの独立(暖簾分け)は許されないというルールです。

このルールがあることにより、王道家の元で弟子が修業を積んでも、そこから弟子が自分の店を持つことは出来ませんでした。

王道家の社長は弟子の独立を認めるもらうべく吉村家の創業者に何度も直談判に行きますが、それでも孫弟子の独立を許してはもらえなかったのです。

結果的に王道家の社長は後進を育成する道を選択し、吉村家と袂を分かつことになるものの、それは苦渋の決断だったことは想像に難くありません。

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